2012年8月13日月曜日

活動報告(8月・幸福と発展)


初めまして、<幸福と発展>分科会参加者の刀禰亮哉と申します。
この度は、前回の勉強会の内容、及び私が本番セッションで議論したいことについて書かせて頂きます。

 前回の勉強会では、スタッフの光島さんが幸福の指標化についてのプレゼンを行って下さりました。
 幸福の指標化の話をする際には、ブータン王国で実用されている指標であるGNH (Gross National Happiness国民総幸福量) の話が中心となるのは必然でしょう。
GNHは、持続可能で公正な社会経済開発、環境保護、文化の保護促進、良い統治という4つの柱を基とし、9の分野についての33のグループ化された指標と124の変数からなる指標です。例えば国民総生産を数値化、指標化するのは自然に見えても、幸福の数値化、ということについては違和感を覚えられる方も多いはずです。それぞれの分野について個別に調査するのでなく、幸福度という一つのまとまりとして扱うことに意味はあるのか、という疑問もあります。つまり、GNHの議論において肝要なのは、その指標としての適切性である、といえます。また、日本のような先進国で同様の指標を導入することができるのか、というのは、特に我々京論壇のメンバーにとっては、大きな問題です。
勉強会ではプレゼンの後、上のような論点についてディスカッションを行いました。この勉強会の内容は、今後も役立つものであったと思います。

 本番セッションでは、自分としては、「幸福とは何か?」という問いについて考え、議論を行いたいと考えています。勿論のこと、これは非常に抽象的な問題ですが、幸福と発展分科会における各トピックという「具体」の積み重ねは、この根源的な問いに対する一つのアプローチであって、どこかで全てのトピックを俯瞰しなければ、それぞれのトピックは全体としての纏まりを欠くものとなってしまい、我々は何を議論したかったのかを見失ってしまう、と考えます。
 抽象的な議論から、果たして結論が出るのか?という疑問は、常に存在するはずです。特に「幸福」というものについては主観性を排除出来ないため、この疑問は全くもって正当であるといえます。これに対して回答するならば、自分は、「結論が出るか出ないか、はこの際どちらでも構わない」と答えるでしょう。私は結論(結果)至上主義のようなものがあまり好きではありません。そもそも、結論を出すことが議論の目的なのでしょうか。無論、政策などといった実践的な事柄に対しては、結論を出すのが最重要となるケースが多いでしょう。しかし、「幸福」について、というような抽象的な事柄に対する議論に対して結論を出すことを目的に据えるのは、根本的な誤謬であるといえるのです。これには二つの理由がありますが、一つは、実際問題として、そう簡単に結論など出る訳が無い、というのがあります。例えば「幸福とは何か」という問題は、有史以前から何らかの形で常に考えられてきた問題であり、そのような問題に対して安易に「結論が出た」などと言っても、先人達は臍で茶を沸かすでしょう。自分の出した結論は別に普遍的なものではなく、一つの見方にすぎないということは理解している、と言うのならば、他の見方も検討し、本当に自分のできる議論をし尽くしたのか、再度振り返ってみるべきです。抽象的で難しい問題に対して、特に我々学生のような未熟な存在が、限られた期間内で、結論を出す為の議論を行う、というのは、やや傲慢な所為に思えてなりません。
 もう一つの理由は、結論を目的に据えることによって、議論が形式に縛られてしまう可能性が高まるからです。結論が目的にあると、なんとしても結論に辿り着かなければ、という強迫観念のようなものが集団に浸透し、本来主観的要素のある問題であるにも関わらず、客観性が欠如しているなどという理由で意見が排除されるなどという矛盾が発生しがちです。議論の一般的な形式、フォーマットに基づき、「生産的でない」議論を排除しようとするのは、「生産的」な議論が「結論に近づく」議論であることを踏まえると、結論=目的という暗黙の了解に基づく行動であるといえ、その暗黙の了解それ自体が誤りであるという可能性に無自覚な行動なのです。
 以上の理由から、私は、あらゆる議論について、結論を目的とするのには反対です。それでは、結論を出すことが目的でない議論について、一体何が議論の目的なのでしょうか。修辞的であるという批判を恐れずに言えば、「議論そのもの」が目的であるというのが私の考えです。自己目的化、というと逃避的に聞こえるかもしれませんが、これが健全であると自分は考えます。我々の場合、各トピックについての議論、そしてそれらを纏め上げる「幸福とは何か」という議論を通じて得られたもの、(ここからは京論壇的な言い方になりますが)つまり「気付き」或いは「再認識」、それによって得られる新たな目的への展望、そしてそれを社会発信という形で共有していくという全ての過程に意味が、成果が、あるのです。結論がある必要はなく、「全て」に意味があるのです。

拙く長い文章でしたが、ここまで読んで下さったことに感謝致します。
以上をもって今回の更新を終わらせて頂きます。
    
刀禰 亮哉

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